エクソダスとバベル

Feb. 2, 2015

 

 映画「エクソダス」や「サンオブゴッド」など聖書を題材にした映画が目立つのは偶然だろうか。「エクソダス」はリドリースコット監督で旧約聖書のモーゼに導かれたヘブライ人の出エジプト記がテーマである。一方の「サンオブゴッド」はイエス・キリストの誕生から復活までの生涯を福音書に沿って描いたもの。

 

 リドリースコット映画としては珍しく、きびしい評価だがこの題材を描くことの難しさを考えると、そう悪くないといいたい。あとからついた副題からもわかるように「王と神」を目指す兄弟の違いを描きたかったようだ。後半でふれるが神を目指すことは「バベルの塔」に共通する人間の愚かさである。


 

 映画「2012年」もマヤ歴が終焉を迎える2012年12月21日に、地球に大災害が起こるとする滅亡論をテーマにしたものだった。自然災害や環境破壊が人々の恐怖心を駆り立てた。現実には何も起こらずまた現地の人々の大半は新たな暦が始るだけだという楽観的なもので、無事に2013年を迎えると人々は安堵に胸をなでおろした。

 


 しかしそれからわずか2年後というのに、世界各地で紛争、自然災害、テロリズムが起こり混乱の中で、終末思想が再び活発化している。社会が政治的、経済的に不安定で人々が困窮に苦しむような時代に、宗教は終末論で救われたい民衆を取り込む。「始まり」と「終わり」が明確に記述されているキリスト教の終末論では聖書によって神の救いの「終わり」の部分とされており、邪悪な者が神のさばきによって永遠に滅ぼされる時に神の国が到来するとされる。実際いま「黒尽くめの邪悪な集団」が中東に現れてそのテロが各地に拡散した結果、世界を恐怖に陥れている。


 

 映画史上では聖書のテーマは「十戒」をはじめたびたび取り上げられて来たものだが、何故今見直されているのだろうか。地球環境が目に見えて劣化し増えすぎた人口が食糧危機をもたらすことが現実になると、人類はかつてない試練の時を迎えていると自覚し、精神的なよりどころとして聖書の映画が相次いで製作されたのかも知れない。あるいは世界の出来事が聖書の預言に沿って動いていると実感したからなのであろうか。ここでは聖書と関わりの深い「バベルの塔」について考えてみたい。



 

「バベルの塔」は旧約聖書の創世記に人間が神(天空)を目指して塔を建設していくが、神の怒りにふれたため途中で崩壊してしまう。高慢な民に怒った神は報いとして共通言語を奪ってしまう。この時まで人間はひとつの言語を共有し互いに理解し、協力して天空を目指すバベルの塔を建設してきたが、この時から共通言語を失った。多言語の世界のきっかけが「バベルの塔」であった。2006年の映画「バベル」では理解し合えない人間関係を描いたものだが、現代社会の人間不信を共通言語を持てないで崩壊したバベルの塔との共通点として訴えた。


 

 他の民族の文化や宗教、慣習を理解ができないために、紛争やテロが後を絶たないことと相通じるものがあある。またバベルの塔の建設には、当時の革新的な工法(レンガとアスファルト)が使われた。最新のテクノロジーで神に迫ろうとした人間の技術過信をも戒める側面もある。実際、最新建築技術で人類はオーバー1,000mの超高層タワーを建設しつつある。皮肉なことに石油マネーを資金とする3カ所のタワーはキリスト教と対立するイスラム圏につくられている。


 

 宇宙空間に進出し、DNAを組み替えることや万能細胞で人間は科学技術を過信した。また人間社会に富の格差が急速に進み、対立や抗争が急速に増えて住みにくくなった。人々はバベルの塔の戒めを聖書をテーマにした映画で思い知るかも知れない。「黒尽くめの邪悪な集団」も実際にはイデオロギーも宗教も関係ない。その邪悪な集団に資金を渡し武器を供給して、残虐な行動を起こさせて結果として戦争を企む人間である。

 

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