広島と長崎に続くはずだった原爆投下

Aug. 19, 2015

Photo: Knights of Divine Mercy


 日本が1945年8月1日までに降伏しなければ、広島、長崎につづき東京に3番目の原子爆弾、その後に最大に12の原爆を追加投下する計画を立てていたことが、広島と長崎原爆投下70周年に関連して新たに公表された軍事資料によって明らかになった。このことは14日、米The Daily Beastで報道された後、ロシアのSputnikで取り上げられ、世界中にニュースが広がった。



3番目の原爆投下 

 3番目の原爆のことは数々の資料によってその存在は確認できる。アメリカ議会図書館収蔵資料のカール・スパーツ資料、マックスウェル空軍基地に保管されている原爆投下に関する資料や2007年のマイケル・D・コーディンの『原爆投下とアメリカ人の核認識:通常兵器から「核」兵器へ』、スタンリー・ゴールドバーグの『グローブス将軍と原爆投下』などのなかで3番目の原爆のことが指摘されている。原爆の投下場所は札幌、小倉、東京が検討されていた。


 ウラン型原爆「リトルボーイ」は広島に投下、プルトニウム型原爆「ファットマン」は長崎に投下された。3番目のプルトニウム型原爆「東京ジョー」は長崎原爆投下後にマリアナ諸島のテニアン島で組み立てられていた。


 1945年8月10日にマンハッタン計画のリーダーの1人であったロスアラモス国立研究所のロバット・バヒェーアはプルトニウムコア(注1)の輸送を指示していた。すでに、6日には広島、9日には長崎に原爆は投下されていた。オッペンハイマーはトルーマン大統領の命令がないことから、輸送を取り消した。輸送が遂行されていたら、プルトニウムコアはサンフランシスコ経由でテニアン島に運ばれ、原爆が完成された後、8月19日か20日に東京に投下される予定であった。


(注1)のちにデーモンコア(下の写真)と呼ばれるプルトニウムの球。ロスアラモス研究所で最初のプルトニウムコアが製造された。そのままでは未臨界だが周囲に中性子の反射板を置き、中性子がコアに照射されると臨界に達する。ロスアラモス研究所では研究者が誤って臨界に達し被曝して死亡した。1945年8月25日のことであった。のちにこのデーモンコアは1946年7月1日にクロスロード作戦でビキニ環礁で熱核兵器(水爆)に使われた。このときは爆縮で球を瞬時に圧縮して臨界に達した。この記事の時系列が正しければデーモンコアはロスアラモス研究所で多数製造されて、研究所の実験と並行して核爆弾に組み込まれたことになる。ロスアラモス研究所では臨界条件を精密に調べていたのだが、すでに長崎でのファットマンと同型の製造を行ったと考えられる。



Photo: Wiki

 

今回新たに公表された資料はすでに明らかになっている以下の事実を裏付けるものといえる。


テニアン島

 テニアン島には世界最大のウェストフィールド空軍基地があった。日本本土などへのB-29爆撃基地だけでなく、原爆の組み立て施設も建設されていた。海軍兵器専門家であったパーソンズ大佐は、原爆を効率良く製造できるように工場を設計した。マンハッタン計画でプルトニウムの精製が行われていた米国ワシントン州のハンフォードの製造施設から定期的にプルトニウムが搬送され、日本が降伏するまで、原爆を製造、投下するというシステムを構築したのである。


 

原爆製造

 原爆製造に関して公表されている資料の中に、ジョン・マーシャル陸軍参謀総長が必要としていた原爆製造に関する情報をジョン・エドウェン・ハル陸軍大将がL.E.シーマン大佐に尋ねている会話のメモがある。その中には、原爆の投下命令がでれば、次の原爆は8月19日には投下でき、その後は10日ごとに1個、月に3個づつ製造できると答えている。

 

 マーシャル陸軍参謀総長は原爆製造能力だけでなく、長期間または短期的に集中して投下するか、原爆投下と米軍本土上陸のタイミング、投下目標などの作戦を検討していたこともメモで明らかにされている。戦争が長期化した場合の作戦を立案していたのである。米国は広島と長崎以外に、東京、小倉、札幌、京都、横浜、新潟など、日本の都市インフラの完全破壊を検討していたのである。


 

 もし、8月15日に降伏していなかったら、日本は核兵器による壊滅的打撃を受けたであろう。広島と長崎だけで30万人の犠牲者がでたなら、12個投下で300万人を超える民間人が犠牲となったはずである。桁違いの民間人虐殺が玉音放送によって未然に食い止められたが、皮肉なことにアメリカはその後も(原爆を使うことはしないものの)各地の戦争で民間人を巻き込んで過去最大の人類を抹消することになった。