周囲を無視したデザインが問題

 

Photo: HAPPY LED LIFE

 

オリンピックのメインスタジアムとなる国立競技場の問題はとうとう白紙にもどってしまった。

 

Zaha Hadidのデザインに問題はなく建設費の高騰の責任とする審査委員長の安藤氏の主張も、高騰を呼ぶデザインにあったとする建築家たちの主張は、もうどうでもよくなった。

 

上の写真はZaha Hadidデザインの未来的クルーザーの写真だが、よくみると国立のエッセンシャルなデザインであるアーチはここでもう使われていることがわかる。

 

はっきりいうとアーチデザインは国立オリジナルでなく彼女のモチーフであったということ。安藤氏の心を奪うほど生命力に溢れたデザインは以下のふたつの点で問題があった。

 

競技場が多目的である(他のスポーツ、ライブ会場)ことを考えれば、場を提供する建築の個性が強すぎること。競技場の原点を考えてほしい。

 

周囲には絵画館や(昔は青年館)、有名なイチョウ並木道、などが融合した独特の雰囲気をかもしだしていて、このデザインはぶち壊しであること。筆者の高校はラグビー場の向かいにあったが帰り道、ラグビー場、野球場、旧国立に親しんでいた。

 

このデザインの国立ができたとしたら、これらを無視し最後まで風景に溶け込むことはないだろう。確か安藤氏のデザインポリシーが周囲との整合性を重視するものではなかったのか。

 

しかしこのデザインに決まった背景には(最後にふれるように)我々の知らない力が働いたのかもしれない。安藤氏の眼を曇らせた何かはわからない。しかしはっきりしていることは、デザインのみを考慮しても意味がない。建設工期と予算と独立したデザインであっってはならない。

 

審査委員長として安藤氏の責任は重い。どうせなら国際コンペをやり直さずに安藤氏が中心となり建築家を集めて、得意なはずの「国家プロジェクト」として、「調和」を尊ぶ日本を主張するようにしてはどうか。

 

Zaha Hadidの競技場はドバイにならふさわしい気がする。話は変わるがトップが責任をとらなくなったことの方が問題だと思います。タカタのCEO、理研理事長、東芝幹部、そして今回の件。山一証券を思い出してほしい。今回の件はしかし責任の取り方に選択肢があります。

 

ただしこの手の公的審査委員会や専門委員会に(もちろん異分野の)出席した経験からいうと、委員長はたいていの場合、お飾りであることが多い。審議もあらかじめ配られるプリントに沿って粛々と?進み、ちょっとした議論があるもののの結論は先にでていることがほとんど。


誰が結論とシナリオをつくるかというとたいていは省庁幹部で、国家的事業は多くの場合、官房が取り仕切る。委員は御用学者なので議論がシナリオ通りにいかないことは珍しいが、反対意見がでて委員会が収拾つかなくなると、結論は委員長預かりか期間を置いて根回しにはいる。


このスタイルが今回も当てはまるとすれば、安藤氏の責任は少ないかもしれない。黒幕がいてHadid案を採用したい力が働いたと私はみている。建設費高騰を容認することができるあるいはそれで利益を得る省庁ということだ。今回の白紙化で国民の意見が通ったということは法案と引き換えとされていることを考慮すれば、顛末は納得がいく筋書きではないだろうか。