米国の変貌ーPart1 Little Rock

  

 Interstate 40 (I40)途中で有名なRoute 66となる米国横断の幹線道路である。このI40にいったん東でのれば、西へ西へと進んだ開拓史を1週間で学ぶ事になる。要所要所でゆったりした時間を過ごすには欲をいえば2週間欲しい。

 

 テネシー州の州都ノックスビルを起点に西海岸を目指すと隣のアーカンソー州の州都リトルロックに入る。上の写真のように東に行けばテネシーのメンフス、西はフォートスミスという便利な街である。

 

 1970年代後半の話である。米国のガソリン価格は日本の半分、当時のガソリンはそのまた半分。ハイブリッドのような感覚だが燃費はどうでもよかった。

 

 アーカンソー州は米国南部においてはアラバマと並んで選挙戦の要となる重要なポジションを占めている。州知事だったクリントンが1992年に大統領に就任したことで一端が伺える。

 

 当時の街はバラの花で溢れていてとてもきれいだった。土地の人に聞けばこの街の黒人は際立って少ない、白人が多いからだ、といって自慢していた。たしかにバラの街と\よばれるだけあってこじんまりした街は南部とはいえない雰囲気である。

 

 ただし白人が多い、だけに白人優位の雰囲気が漂っていたことも確かである。この街の現在の人口構成を知って驚いた。白人人口は55%に減り、アフリカ系黒人が40%を越えた。

 

 有名な人種差別問題のリトルロック高校事件(1957)では、州知事が州兵を学校に送って黒人学生の登校を阻止した。異人種融合に反対する地元の白人も大群衆となって学校を取り巻き、黒人学生の登校に反対した。1868年の合衆国憲法修正14条(いわゆる14th Amedment)において「法の前の人種間の平等」が認められても、人種差別が続いたが、この事件はそのことを世界中に知らしめた。「法の前の平等」とは形式的なものであったのだ。

 

 1970年代の後半も黒人への静かな圧力を感じ取ることができた。しかし40%を越した勢力を無視することはもはや不可能である。最近の犯罪都市のランキングでも上位半分の常連となってしまった。

 

 40年も経てば変化の早い米国の社会構造が変貌を遂げることは不思議は無いのだが、やはり1965年の移民緩和の立法の影響力が大きかったこと、白人の数倍という出生率で白人は多数勢力の優位性を失った。1965年から銀貨の銀成分が90%から40%に落ちた。1970年代後半はそれでもまだ、今から比べると白人の絶対的優位性は崩れていなかった。

 

 今回からI40沿いの街を通して米国社会の変貌について連載して行きたい。