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H定理(H-Theorem)とは統計力学の基本定理のひとつ、理想気体のエンントロピーが不可逆過程で常に増大することを示すものである。1872年にボルツマンが導いた定理で、ボルツマン方程式の根幹をなすものであった。しかし量子力学的な解釈がなされないまま44年の月日が流れた。
ロシアの量子情報理論の研究者が最近、量子力学によるH定理の解釈に初めて成功した(Scientific Reports 2016, 12 September)。これによりボルツマン方程式の根幹であるH定理が量子力学的に証明されたといえる。この仕事は量子情報理論の進歩によるところが大きい。
H定理は理想気体(注1)を対象として分子の運動力学を記述するためのものであったが、ランダムな事象の統計に欠かせない存在として、各分野で頻繁に使われることとなった。しかし物理的には可逆な力学過程から不可逆なエントロピーの増大が導かれる見かけ上は矛盾した結論が、証明されるためには微視的な量子力学的解釈が必要であった。
その後数多くの研究者がこの問題に取り組み、ボルツマンがボルツマン方程式で求めたH(確率密度関数の自由粒子速度の体積分)の時間微分が負またはゼロである(増大しない)ことは、前提や定義が異なる条件で個々に証明されたが、一般的な証明はされていなかった。
例えば自由エネルギーで有名なギブスは全粒子(巨視的系)の統計から求められたHが平衡状態に向かって減少することを示したが、ボルツマンが目指した微視的立場で表現されたHと定義が異なる。その後の量子力学的証明の試みは一般的に認められたものでなく議論が続いていた。
エントロピーが新しい意味を持つようになったのは情報理論の父と呼ばれるクロード・シャノンによって、情報量がエントロピーと同一とみなされるようになってからである。ここでのエントロピーとは情報(特定事象の起こりにくさを測る尺度)の量で定義される。
同じく情報理論の大家フォン・ノイマンは確率関数を量子力学で表現しエントロピー増大の量子力学的証明に取り組んだが、完全な量子力学的記述ではない。一方、量子暗号や量子計算機への関心から量子情報理論の発展が目覚ましく、エントロピー変化が負にならない理由を説明する多くの研究が行われた。
これまでも量子情報理論を使うと情報の送信および情報操作が常にエントロピー増大を伴う過程であることは数学的に証明されていたが、そのような量子的チャネルでのエントロピー増大が実際の物理現象との関係は明らかではなかった。
ロシアのランダウ理論物理研究所を中心とする研究チームは量子情報理論でH定理を物理量として数学的に表現し解析した。熱力学第二法則を初めて量子力学的に記述することに成功するとともに、熱力学第二法則が成り立たない条件も存在することが示された。
中国の量子暗号通信衛星が打ち上げられ、IBMが量子計算機のオープンユースを開始した2016年は熱力学第二法則(H定理)が量子力学的に証明される歴史的な年となった。