オスマントルコと"Blue Bottle Coffee"の意外な関係

Feb. 24, 2015

 

  移民を通して世界に拡散しテロによってオスマントルコ以来の驚異となったイスラム勢力。そのオスマントルコが1683年にウイーンを包囲した史実を描いた2014年の映画「神聖ローマ、運命の日、オスマン帝国の進撃」が注目を集めている(注)。1683年に圧倒的な勢力でウイーンを包囲したオスマントルコが敗退した歴史をたどるとイスラム化の原点がみえてくる。


(注)イスラム勢力の台頭がオスマントルコ復権を目指すかのような今日、聖書を描いた歴史映画がブームとなっている。公開中の映画「エクソダス」は旧約聖書にある、モーゼに率いられてエジップトを脱出するイスラエルの民の出エジプト記を描いたスペクタクルである。



 オスマントルコ時代の欧州は悲惨であった。キリスト教の西欧と中東から勃興したイスラム教のオスマントルコが覇権を争って、抗争に明け暮れていた。ヨーロッパの覇権をかけてキリスト教勢力とイスラム教勢力が真っ向から衝突したウイーン攻防は、勝敗が違えばその後の現代社会のあり方も変わっていたとされる。もしウイーンがオスマントルコの手中に落ちていたら十字軍の結成もなかったし、ヨーロッパの教会はモスクに姿を変えていたかも知れない。


 この敗退をきっかけにオスマントルコは衰退の一途をたどりその後も戦争は絶えなかった(トルコ戦争)が、ヨーロッパの領地を返納したことで現在の東欧が存在する。ハプスブルグ家の拠点であったウイーンを包囲したのはオスマントルコの大宰相カラ・ムスタファ率いる30万の大軍。(注)


(注)映画では30万となっているが15万という説もある。オスマントルコにとってはかつてウイーンを包囲してハプスブルグ家の神聖ローマ帝国を制服を企てた150年前の攻防以来好機を待ち続けていたのだった。



 オスマントルコ軍はウィーンに到達して包囲し、町の西部から城壁の突破をはかって攻撃を仕掛けたが、城壁は堅固で破れなかった。当時の最新技術とハプスブルグ家の潤沢な資本による城壁は、重火器を本国から運べなかったオスマントルコにとって痛手であった。またこの時に神聖ローマ帝国の威信をかけて防衛に馳せ参じたのが、同じくオスマントルコと領地を巡って争っていたポーランドのヤン3世であった。


 ヤン3世は(皮肉にも)ドイツ−ポーランド連合軍を率いてウイーンに向かい、ウイーンを見下ろす丘に陣取って好機をうかがった。兵力的にはポーランド軍3万と連合軍4万にオーストリア軍1万5000を加えてもオスマントルコには遠く及ばず劣勢に立っていた。しかし士気に勝るポーランド軍は騎兵3000が核となってオスマントルコ陣地の中央突破を敢行し、一気にオスマントルコの敗退を余儀なくした。機動力の勝る騎馬兵で兵力的な劣勢を挽回した有名な戦としては桶狭間がある。これらは兵力の劣勢も油断した隙に一気に攻めることで挽回される奇襲戦術の有効性ことを示す典型であった。



 

 一般的に城の包囲は長期戦になり、本国から長い道のりの遠征軍にとっては体力と士気を消耗する。また後方支援が滞れば長期作戦は不可能であることはナポレオンと同じ失敗をしたヒットラーのモスクワ攻略でも明らかである。野営を強いられる包囲群に対しウイーンは城壁に囲まれた「都市」であり守りについた兵士達は長期戦でも快適な生活を送れた。快適な生活が士気に影響した。野営は体力を消耗すると同時に非衛生で病気にかかり易い。



 オスマントルコの落とし土産が意外なウイーン文化を生んだ。逃げ帰ったオスマントルコが持参して来た珈琲豆を手に入れたことから、ウイーンのカフェ文化が始ったのである。ウイーンのカフェの中でも有名な店として"Blue Bottle Coffee House"がある。日本に最近上陸して行列ができている人気の珈琲ショップ'Blue Bottel Coffee"の名前の由来である。


 

 当時のカフェの絵(トップ)で、貴族にうやうやしく珈琲を捧げる「ウエイター」の男に注目して欲しい。アラビア珈琲のカフェはこうして欧州文化に取り込まれやがて欧州全体に広まることになった。戦争に負けたことで逆にイスラム文化は欧州に浸透して行った。しかもカフェは貴族の社交場でもあり富裕層に根ざしたことで迫害されないどころか、流行となるのに時間はかからなかった。


 

 またウイーンではオスマントルコの国旗にある三日月をヒントにクロワッサンが発明された。相手の国旗を朝食で、「食べてしまう」、という勝利を祈願するためであったが、珈琲とクロワッサンは欧州全体に広がることとなった。皮肉にもハプスブルグ家が憎むフランスでもクロワッサンは歓迎された。ウイーンが攻略されてオスマントルコが勝利していても珈琲は欧州に広まっただろうが、クロワッサンはなかっただろう。


 また1683年にウイーンが攻略されていたら、その後の十字軍も宗教戦争は無く、キリスト教徒は弾圧されたであろう。オスマントルコがその後衰退の一途であったことを考えれば、2度に渡るウイーン攻略の失敗という屈辱をはらすことは悲願であっただろう。現実に欧州へのイスラム教徒移民は増大し大通りを占拠する彼らは少数派で無くなろうとしている。欧州で勢力を伸ばすのはオスマントルコ再建を目指すのだろうか。その時にはクロワッサンを禁止するのだろうか。



 下の写真はウイーンのカフェ。"Blue Bottle Coffee"は行列で手に入るが、当時のカフェはきっとおなじように人気があっただろうが、庶民には手が届かない貴族御用達であった。